智福寺は浄土宗の総本山である知恩院の流れをくむ寺として、江戸時代の初期に開山された伝統ある寺院です。開祖一空上人は上総国の武士の子として生まれ、6歳の時に出家し、32歳で木食戒(穀物を食べず木の実や草の根のみを食す苦行)の念仏勤行を修められました。一空上人は、寛永2年(1625年)、江戸・桜田元町(現、東新橋)に智福寺を建立します。徳川家光が三代将軍に就いた2年後のことです。
その後、この地が幕府の御用地となったため智福寺は札の辻近く、芝田町6丁目(現在の港区田町)へ移転することになります。寺に伝わる「智福寺開山一空上人略伝記」によると、当時同地は品川に向かう東海道沿いの丘にあり、長い間空き地になっていました。その理由は、江戸の初期に行われたキリシタン弾圧(天和の大殉教)の刑場跡地だったことによります。一空上人にこの地への移転を決心させたのは、悲しみを抱えた土地を寺院にすれば、刑死した人々も浮かばれるだろうとの考えからでした。こうして智福寺は芝三田・高輪付近にあった多くの寺院とともに江戸から明治へと時代を経ていきます。
時は移り日本が戦後復興を果たすと、札の辻周辺にもビルが建ち並ぶようになります。昭和36年、東京がオリンピック開催へ向けて都市開発ラッシュに沸いていた頃、寺の移転話が持ちかけられます。しかし当時、智福寺に移転の考えがなかったため即座に断りました。ところが16世住職深誉常光は、その後1年あまり思慮を重ね、次第に寺の将来を考えるようになりました。「黙っていても周りのビル開発は続き、寺はその谷間に隠れてしまう。このままで将来寺を維持していけるだろうか」。住職が法類の寺や関係者に相談すると、移転賛成の声が多い。そこで檀信徒にも納得の得られる移転地候補があるのか調べてもらうことにしました。条件は「都内、世田谷方面、私鉄なら駅より徒歩10分以内の平坦地」。そして行き着いたのが現在の地、上石神井でした。古くは武蔵野の農業集落地で石神井川が横切る緑豊かな平穏な場所でした。昭和39年1月15日、総檀信徒会議を開き、移転についての住職の考えを伝え、候補地・上石神井の説明をし、檀信徒一同の了承を得ることができました。2年後の昭和41年1月7日建築確認許可が下り、同年7月24日の落慶式をもって移転が完了しました。
以来45年あまり智福寺は上石神井の地の寺院として地域との親好を深めていきます。16世住職の夢は上石神井を安住の地とし、地域に親しまれる寺院づくりでした。「近隣の方々に安らいでもらえる憩いの場を造りたい」との思いは、平成23年、形を変え宗教の枠を超えた、誰にでも開かれた霊園として結実しました。